海苔の歴史


海苔読本


日本人の食生活に古くから親しまれてきた「海苔」。海苔はいつ頃から私たちの食卓にのぼるようになったのでしょうか。その歴史をちょっと紐解いてみましょう。


「海苔」という言葉

海苔は、日本にまだ文字がなかった頃創られた大和言葉です。古来より海草類の名前には、「メ」「モ」「ノリ」という語尾がつけられていました。 広く長いものは、若布(わかめ)、滑海藻(あらめ)、凝海藻(こるもは)、短いものは、「苔」や「菜」の字をあてて、ノリと呼んでいました。 「滑(ぬら)」が転じた言葉で、ぬめりのある海藻を呼んでいたようです。現在の海苔だけを表すようになったのは、江戸時代後期からです。

現存の最も古い海苔の記述は、『常陸国風土記(ひたちのくにふどき)』の中にあります。4世紀初め頃、日本武尊(やまとたけるのみこと)は、常陸国の浜辺(現在の茨城県霞ヶ浦の西南端に臨む場所)で、海苔が干してある光景に心をひかれます。 同書には「これによりて能里波麻(のりはま)の村と名づく」と書かれており、以来、乗浜(のりはま)村として諸国に知られるようになりました。



奈良・平安時代の紫菜(むらさきのり)

海苔は、正倉院文書や『風土記』に「紫菜」として記録されています。大宝元年に出された「大宝律令」には、朝廷に納める御調(みつぎ)として8種類の海藻が選ばれ、なかでも紫菜は最高級でした。当時は生海苔で、その味わいのためか、アマノリの別名があり、「甘苔」「神仙菜」の文字が当てられていました。神仙とは、古代中国の伝説に登場する不老長寿の神様のことです。

鎌倉・室町時代の海苔

鎌倉時代には、伊豆の海でとれた海苔が最高級とされ、歴史書『吾妻鏡(あずまかがみ)』には、源頼朝が4回にわたって、京都の後白河法皇に伊豆海苔を献上したという記述があります。海苔は、精進料理にも茶懐石にも、香味や彩りを添える貴重な素材として使われました。

江戸の名物、浅草海苔

乾海苔浅草海苔が一般に広まったのは、江戸時代の初期のこと。正保二年に出された俳諧集『毛吹草(けふきぐさ)』には、「下総国葛西(しもふさのくにかさい)海苔、安房国小湊(あわのくにこみなと)海苔、武蔵野国(むさしのくに)品川海苔」とあり、葛西海苔は、「これを浅草海苔ともいう」と記されています。品川・大森沿岸の浅瀬でさかんだった海苔養殖は、海苔が、海中に立てたヒビという、木の枝をわらでくくった麁朶(そだ)によく付着することから始まりました。



海苔で栄えた日本橋

町人文化が花開いた文化・文政時代(1804〜29年)、日本橋は江戸最大の町として賑わいました。海産物をはじめとする問屋、小売業が軒を連ね、蕎麦屋、寿司屋が立ち並んで、海苔の需要が急騰。海苔業界では浅草をさしおいて、日本橋の問屋がはぶりをきかせ、上総や下総に新しく海苔場ができると、浜から直接仕入れるヤマを設けて、問屋を兼ねる小売商も出現します。

弘化年間(1844〜47年)には、「日本橋乾海苔仲間」が成立。丸山海苔店の前身、「川口屋」も安政元(1854)年、日本橋通り三丁目に乾海苔問屋を開業。明治時代には、日本橋海苔問屋組合が発足します。まさに海苔は、日本橋の繁栄の立役者だったといえます。

慶長八(1603)年に架けられた木製の日本橋が、現在見る石橋に架け替えられたのは、明治四十四(1911)年。江戸から東京になり大正時代に至って、日本橋はますます栄えます。呉服屋や薬屋など大店の風格を示す古くからの店があるかと思えば、ハイカラな洋品店や帽子専門店なども登場し、赤い絨毯が敷かれた三越百貨店では、下足札をもらって靴を脱いで店に上がる客の姿が見られました。

日本橋川沿いには何十軒という寿司屋が並び、祭りのときは道なりに縁日の市が立って、賑わいもひとしお。町内がひとつにまとまって演芸場やお神酒所をつくり、神輿を担いで、江戸っ子らしい遊びに興じました。